いじめが社会問題になっている。
いじめる方が悪いとか、
いじめられるほうが悪いとか、
そういう問題では済まされないのではないだろうか。
いじめを生む社会環境がそこにあるとは、いえないだろうか。
自分の子も先日2歳になったが、室内遊具施設やおもちゃ売り場などで、見知らぬ子と遊ぶことも多い。
そこには様々な親に育てられた、様々な子が集まっている。
うちの子も、他人からすればそんな子供のひとり。
ある一定数が集る、あるいは一定回数に何人か、決まっていじめっ子がいる。
そしていじめられる子がいる。
また、成長過程で起こる一般的な感情状態ではない、異常なまでに感情をむき出しにする子もいる。
そして、必ずといっていいほど、その親たちには共通した問題を感じる。
何をしていても無視している親、
携帯ばかりをみて全く子供とのコミュニケーションを取らない親、
わが子が一番大切な親、
異常な神経質さを露呈する親、
子ども以上に感情のコントロールができない親・・・
学びは真似ることから始まるが、その学びの起源は親にある。
何かしらの影響を受け、感情が歪んで育つ。
その歪みが誰かを傷つける行為へと駆り立ててしまう。
子や親を見ていると、何か大きな抑制が働いている気がしてならない。
子どもの行動は本能に近い。
理論的にその物事が良いか悪いかを判断させることは難しい。
だから、長期間に渡って影響を受け続けることによって育まれる、
性格やパーソナリティといったことが、本能を容易に刺激してしまう。
「子ども」という本人の意識の行き届かない時間に形成された抑圧が、
他人に対して爆発しているともいえる。
いじめを誘発しているのは、環境であるといっても過言ではない。
一方で、現代を生きる親も、なかなか生き抜いていくのは容易ではない。
不安定な経済、不安な社会環境・・・ある種のいじめともとれるような不合理なことや理不尽なことも、多い。
いじめは、誰かが好きとか嫌いとかで起こっている「その場」だけのことではない。
社会全体が引き起こした、歪みの表れではないだろうか。
人がお互いを認め合うような社会環境をもっと作れたなら、
いじめのような問題を減らせるような気がする。
人の寂しさや怒りなどの反動が、うまく処理されず他人を傷つけているのなら、
やはり社会環境や教育、文化というものが、何か人の心を豊かにしていくことができるのかもしれない、と思う。
コモンビートの活動が、間接的にでもそんなことにも寄与できたらと考える、今日この頃です。