役割や分担について考えてみたい。
なぜそれがあるのだろうか。
本来は決める必要がない、こと。
誰かが自然とそれをすれば、役割など決める必要がないし、分担をする必要がない。
しかし、すべての人がそれをしても困るし、誰もやらなければそれも困る。
だから分担をして、役割というものを決める必要が出てくる。
仕事などでは特に、そういった役割や分担などが重要になってくる。
それは業務効率化を求めるためであり、管理もしやすくするためである。
そして、肩書きなどをもらうことで、役割を他人に知らせることもできるようになる。
私たちはこういう「効率化」を求めた社会に住んでいるので、
「分担や役割を決める」あるいは「決められる」ことが当たり前になっている。
でもそれによって、「分担や役割を決められないと、どうしていいかわからない人」も増えてきたように感じる。
肩書きや役割がはっきりしないと、何もできない人が多い。
自分が何をすれば良いのかわからなくなり、肩書きを欲しがる。
活躍する人は、むしろそういうことはどうでもよく、
どんな役割を与えられようが、自分のためにそしてみんなのために自分を発揮できる。
必要な役割や分担を見つけ出し、役割を自然に担っていく。
本来あるべき役割を自分で見つけるチカラ
それが身についていると、体裁などに振り回されることはない。
私はたまたま起業家から始まり経営者をやってきたこともあり、
その時に必要な役割を見つけて担う
ということを経験できる機会に恵まれた。
会社経営というのはハプニングだらけ。
突然会社を辞める人、事業がうまくいかない、資金繰りが厳しい・・・
毎日がそんなハプニングしかないような中では、カメレオンやアメーバのように自身を自在に変化させて生きていかざるをえなくなくなる。
だから社長というのは、役割があるようでいて、何もない。
何でも屋、つまり、雑用である。
ゴールがはっきり見えている人にとっては、自分の分担や役割、肩書きやプライド、体裁などどうでもよくなる。
でも、何か役割や分担という「枠」や「箱」に入れられないと、それに囚われて不安が湧いてくる人が多い。
その不安を打ち消すために、そういう人は「言い訳」をしたがる。
これじゃ動けない、自分の役割がわからない、分担されていないとできない・・・・
そうかといって役割や分担が決められると、、
与えられたことしかやらず、指示がないと動けず、やれない理由を探す・・・
また、役割や分担をしすぎてしてしまうと、自分がすべきことまで他人に押しつけてしまう。
ゴミは誰かが捨ててくれる、誰かが整えて綺麗にしてくれる・・・
そして、そういう役割の人がいるはずだ、その人はそれをすることでお金をもらっているはずだ・・・と。
地球温暖化、原発問題、雇用の不安定、自殺問題など、すべて問題を他人の役割だと思っていないだろうか。
社会が悪い、政治が悪いと、役割を誰かに押しつけても、何も解決をしない。
分担をしすぎると、自分の問題を他人のせいだと勘違いをしてしまうことさえある。
当初、コモンビートの活動を始めた頃は、誰にも役割などなかった。
自然に生まれ、自主的にみんなが動き、助け合いの中で分担し役割を担っていった。
「主に」そこをやる、という分担だから、みんなが役割を担っている。
コモンビートは、もともととてもアナログで、何も決めない団体なので、誰もが決めることができた。
でも、そうした人たちが自主的に作ったものを、ルールかのように受け継ぐことが多くなり、役割や分担が自然と出来てしまったように思う。
だから最近のコモンビートでは、あまり役割を決めすぎない。むしろ、放置。
何も決まっていない中で自ら決めていく過程は、何にも代えがたい楽しみになる。
もちろん、決まった型を演技するのが面白い人も多いし、何かの達成感は得やすい。
でも、私たちはフリースタイルの中で生み出されることを大切にしたい。
単語でいうなら、創造性、臨機応変、自主性、変化適応力、楽しむチカラ・・・などになるのだろうか。
(単語にすると、つまらなくなるが・・・)
あまり自分の役割などを決めすぎると、楽しめるポイントが限定してしまう。
分担をしすぎるると、隣の世界が見えなくなる。
隣の人の役割を尊重しすぎて、お互いの間に溝ができる。
そして、その「エアポケット(溝)」に大切なものが落ち、お互いのせいにする。
人生も仕事も、役割や分担は程々にすることのほうが、
新しく楽しい世界が広がるに違いない。