自由の意味 | NPO法人コモンビート
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自由の意味

大きな木の下で

最近、自由という意味はとても深いなぁと感じます。
軽々しく「自由になりたいという言葉を使っていいのだろうか?」と思ったりします。
「あなたは自由か?」と聞かれたら「きっと自由にさせてもらっている」と答えるでしょう。
自由は許可をしてもらっているものであって、自由にしているという自分の意思ではないような気がします。
自由というのは、秩序(ルールやマナーなど)があってこそ成り立ちます。

 いくら自由を主張しても、法律に違反したら捕まります。
   信号無視はできません。
 いくら自由だからといってわがままを言えば、友達がいなくなります。
   言論の自由がある一方、侮辱すれば訴えられます。
 いくら自由さを楽しもうと暴飲暴食をしていれば、体を壊して人に迷惑をかけます。
   飲み放題の結果、介抱されている人をよくみます。
 いくら自由だといって生きていても、地球環境が壊れれば住む場所もありません。
   私たち自身が不安を抱いたり実際に困っています。

結局、自由というのは与えられているもので、自分の意思ではないような気がします。

私のことを自由に生きているように映っている方も多いと思います。
私は自分で自由さを持てている分、自分でルールなどを作る必要があったり、かえって過剰に守らなければならない状況も出てきます。
何百人もの団体の代表が自由奔放に行動した結果、皆をがっかりさせることはできません。
自由な発言が、もし失言に捉えられたら、代表の失言として受け止められる可能性もあります。

ある一定のルールの中で自由に動いていることのほうが、自由さを感じることができるのではないでしょうか?
もしそのルールに不満があれば、別の場所で自分の好きなルールを作って実施すればいいのです。
自分の好きなルールのある国籍に変えるという意思は自由です。
(そこにもルールがあるでしょうが)

私は自分が選んだ環境の中で、ルールや秩序の中でおもいっり自由を楽しむことが自由だと思っています。
大きな木の下で、雨に濡れずに遊ぶ子どもたちのようです。
枝が覆えない場所には雨が降っているかもしれませんし、強い日差しがあるかもしれません。

木の下を選ぶのも、外を選ぶのも、意思だけは自由ですから。