最近、効率を求めすぎている風潮を感じます。
時間短縮やコスト削減のために合理化が進んでいます。
家庭でできたことを工場で集中的に生産したりするのも合理化の1つです。
私たちの生きている時間は限られているので、合理化できるところの時間は短縮して、他に時間を使いましょうということなのかもしれません。
でも空いた時間を本当に効率的に使えているのでしょうか。
効率を優先して、その過程にあった楽しみや経験はどこへいったのでしょうか。
効率や合理化は、短期的な視点で見れば目の前のことを劇的に解決してくれるかもしれません。
ゴールを手に入れるために、最も近い道を教えてくれたようにも感じるかもしれません。
たとえば、人生にカーナビのようなものがあったとしましょう。
カーナビにはいろいろなメニューがあります。
ゴール地点を設定すると、
時間優先
距離優先
有料道路優先
推奨
など、自分でコースを選ぶことができます。
このカーナビが人生だとしたら、あなたはどんなコースを選びますか?
「景色のステキなおススメの道」などは、私の車のカーナビでは出てきません。
人生は車を運転するようなものなのかもしれません。
いつもカッコイイ車に乗っているわけでもなければ、いつも舗装された道でもありません。
同じ車に乗っているわけでもありません。
そして車の運転は、現地に早く着くためだけのものでもありませんよね。
車の中の会話、外の匂い、美しい景色・・・
とてもたくさんの楽しみ方があると思います。
もちろん正解はありません。
狭い最短距離を通るより、広くて走りやすい道を選んだほうが事故がないかもしれません。
どちらが効率的かという基準もありません。
効率ということにはある基準が必要なのでしょうが、効率に対しての思い込みがあるように思います。
それに効率を重視しない人にとっては効率には全く意味がないし、むしろ抵抗すらあるでしょう。
コモンビートの活動も、効率化を積極的に進めたいとは思っていません。
非効率に見えることに対して、効率化の提案をもらうこともありますが、あえて非効率にしているところもたくさんあります。
むしろ、非効率な中で得られることを再確認していこうというような考えも持っています。
もちろん、効率化を否定するわけではなく、効率的にすることで得られるメリットと失われるデメリットを考えて選択すればよいと思うのです。
必要な部分だけ効率化するのが良いと思いますから、全部をする必要もないでしょう。
私は、「常に効率化が正解である」という考え方にはとても抵抗があります。
毎日がとても便利なので、何が失われたのかもわからなくなってきそうですが、1つ1つを考えるように意識をしています。
効率にすることが非効率を生み出すこともたくさんあるでしょうし、非効率にすることで新しい発見をすることもあるでしょうから。
先日、妻に扇子をプレゼントしました。
扇子という一見非効率な道具に見えますが、いつも小型で携帯できる効率的な道具だなぁと、僕の目には映りました。